« 2011年3月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年4月

刈り込みの時がやってきた。

電気利用が爛熟して、ふやけ切ったスタイルをシェイプアップする時が来たのかもしれない。豊富な電力を背景として生み出された技術群が、電力を不要にするべく応用される時代が到来しようとしているのかもしれない。“電力文化”が一種のカタストロフを迎え、世界が次の段階に進化しようとしているのだろうか。

すべての存在は自らの存在理由を無意味化するべく機能する――という無手勝流の命題は、時代とか世界にも適応できるのかな、とか考えている。

これは一種のモノノアハレとかワビとかサビなんてところにつながって、つまり、自分を無にすることで世界が有意になるという眺め方なんだろうけど、意外とこういうのは日本人向きなんじゃないかな、とも思うわけです。人が決定的に無力であらざるを得ない自然の力を見せつけられるとき、人々の“経済性”が強く働いてプラットフォームの強化が進む、人々の寄り添いだとか結びつきが強くなる――というのは、黒船とか大戦とかという決定的に強く抗うのが難しい存在が登場したときに似ている気がするわけです。

とすると、“予定されてしまっている電力不足”という決定的状況も、同じように作用するんじゃないかなぁ、と演繹したくなるわけです。日常生活、経済活動などが縮退せざるを得ない状況だけど、同時に、縮退という制約がイノベーションの種ともなり得る。

常に自己確認のために“操作できる他者”を必要としてきた人たち、自らの多様性を増やすために他者との“物語”のスクラップ&ビルドを繰り返し、それを通じて自他間で価値の交換を行なうという歴史を積み重ねてきた、そんな人たちには理解しがたいかもしれませんが。

多様性が、非・人間である自然環境から無作為に与えられることが多かった( のかな?)日本にとって、そこに“物語”を見出し意味づけする、棲んでいる世界を有意にするというのは、実はごく当たり前の風景なのかもしれない。それを忘れていたのかも。

“人間という他者”しか相手にしたことがないと、その多様性は混沌にしか見えないのかも。

ふやけてしまった無駄なところを刈り込んで本質に肉薄する、という行為に、これからの電力不足は役立つのかな。同時に、要らないものを思い切って削り落としてしまう、ということで次の段階に進化できるのだとしたら、これまでの“ふやけ”は無用の用として大いに意味が与えられるのかもしれない、と思うわけです。

(以下は、読んでみたい本、ということで)

| | トラックバック (0)

夏休みは3ヶ月……て、ムリか。

ソニーが夏休みを2週間にして、その分は後日の祝日出勤で穴埋めする、だそうだ。そんなみみっちいことしないで、いっそのこと1ヶ月の休みとかにすればよさそうなものを。

いっそのことついでで、7、8、9月を休みにしてしまえばいい。3ヶ月間も休みがあれば、そのあいだに新しいビジネスが立ち上がるんじゃないかな。夏の3ヶ月間を九州とか沖縄とかに一時移転して、新規ビジネス立ち上げの長期合宿やればいいんだ。

全国的規模でやってみてもいいかもしれない。2011年は特別に。

たとえば、その3ヶ月間の生活費については税金を投入する。働いている人、求職している人を対象に、3ヶ月分の生活費を貸します。その代わりに新しいビジネスを立ち上げてください――みたいなの。けっこう面白いものが出てくるんじゃないかな。もちろん、お金は後ほど返していただきます。しっかり取り立てます。返せなかったら晒します。

金融機関がそういうことをやってもよさそうだ。一種の投資になるんだと思うけど、一人百万円貸しますから、ビジネス立ち上げてください、みたいなかんじで。

なんて云ってないで、私がやればいいのか。元手200万円として2人分をまかなえる。で、3ヶ月で新しいビジネスを立ち上げてください。

あ、そうか。私がその200万円で半年かけて新しいビジネスを立ち上げればいいのか。なるほど。要は覚悟できるかどうか、ってこと、ね。ここに企業体の存在意義がありそうだ。個々人は弱くても、その人たちの覚悟を後押しする、それが企業の存在意義、とか。

まぁ、企業自身が腰抜けだと、しかたないんだけど。


| | トラックバック (0)

「楽しい」のは予測と想定外のバランス、かもしれない。

あ~、なんかやらなきゃならないコトがあるんだけど、やりたくないなぁ。あ、そうだ、ロケットニュースでも見てみるか――て、やらなきゃならないコトとは無関係な“気晴らし”に逃げちゃうなんてことが多々あることは、経験からわかっている。試験前になると小説を読みたくなる、というやつ。

別段急ぐこともなくてヒマだから“ひまつぶし”にケータイのゲームをやってしまうとか、目的もなくテレビを見続けてしまう、ということもあるだろう。英会話の勉強するとか、資格試験の準備をするとか、ドラッカーを読み返すとか、次の休日にやるべき家事をリストするとか、実はもっともっと人生における優先順位の高い事柄があるにもかかわらず……。

でも、そんな“気晴らし”や“ひまつぶし”に「逃げ」るときでも、ちゃんと、どんな「逃げ」にするかを選んでいる。「逃げ」るんだったら何でもいいわけではない。どのゲームにするか、どのテレビ番組を見るか、ロケットニュースのどの記事を読むか、って選んでるでしょ?

で、思った。どんなに( 人生の大事なことに比べたら )低級な“ひまつぶし”であっても、「楽しい」ことを選んでるんじゃないか、って。だったら、その「楽しい」の素を取り出して、つまらない仕事、かったるい勉強、うざい家事なんかに振りかけてやれば、仕事や勉強や家事が楽しくなるんじゃないかな? て。

じゃぁ「楽しい」て何よ、と。

ウェブやテレビ番組を次々に渡り歩いて「逃げ」ているとき、選ぶコンテンツに期待していることが2つあるような気がするのだ。

・ある程度まで予測可能で、
・理解できる範囲での意外性がある

てこと。結末を自分なりに予測して「あ~、やっぱりそうじゃん」という安心感。ここに快感を感じる生理的な仕組みがあるんじゃないだろうか。だけど、結末が完全に予測どおりだと、かえってつまらなくなる。

仕事の段取りを記して仕様書とか手順書を作ると、もうその作業なんか自分ではやりたくない、もうお腹いっぱい、というウンザリした気持ちになることがあるけど、それはほぼ完璧に結末や結論や成果が予測できて、想定外のトラブルなんかが起こり得ないことがわかっているからかもしれない。

で、トラブルというほどではないけど、成果に想定外の要素が付け加わるとき、でもそれは自分としては十分に許容できる想定外であるとき、面白みが現れたのを感じることが出来る。いわゆるスパイスってやつ。

ここがなかなか難しくて、予測できないとか、予測できない結末とか、意外性が皆無とか、理解できない意外性だとかは、自分を不安にしたり不快にしたりする。按配が難しい。それに、人によって予測や理解の範囲が違うから、人それぞれ「楽しい」ことが異なってくる。

仕事を予測可能にするのは結構簡単だったりする。大きな仕事を小さな仕事に分解していけばいい。一つ一つの工程を小さくすることで不確定要素を減らしていける。だけど、この過程は「想定外」も減らしてしまい、仕事が味気ないものになってしまう危険性をはらんでいる。

かといって「想定外」が大きすぎると“意外”じゃなくて“やばい”になってしまって、面白がっているどころではなくなる。

どうやって「安全な意外性」を織り込んでやるか、その辺が、仕事を楽しくするキモになるんだろうなぁ。一番簡単な方法は、目標が同じ“同僚”と一緒に仕事をすること。人がもともと持っている多様性とか揺らぎなんてのが、許容範囲内の「意外性」を作り出してくれるんじゃないか、と。

もうひとつ思いつくのは、仕事を入念に仕上げること。許される時間と費用の範囲内で、どこまで丹念に仕上げられるかに挑戦する、てことかな。自分の予想以上の仕上がりというのは嬉しいもんだ。

ラジカルだけどシンプルな方法としては、仕事の順番をランダムに変えてみる、なんてのもあるかもしれない。順番を変えるだけでも、これまでの常識とか習慣から離れることで意外性を演出できる。

これ、GTD系のツールに応用できないかな。


【参考】音楽の陶酔と「曖昧な未完結」 | WIRED VISION:
http://wiredvision.jp/news/201101/2011012521.html


| | トラックバック (0)

背番号ついてもイイじゃん。国民総背番号制と通信インフラの強化が進む、かな。

この大震災について報道や、被災地に入った人のtweetを眺めて思ったのは、情報という神経ラインが弱いということ。

電力が落ちて、通信線がズタズタになってしまって、誰が何処にどれくらい居るのか居ないのかが分からない、何が何処でどれくらい必要とされているかも分からない。そもそも誰が居なくなったのかさえ把握できない。被災地の人が必要としている情報や物資を「欲しい」と叫ぼうにも、その叫びを届ける術もない。

それと年寄りが多いからというのもあるだろうけど、メディカル分野での対応が追いついていないんじゃないかな。

自分が持病持ちで薬を飲んでいるせいで気になるんだと思うけど、普段から使っている薬品が津波で流されてしまって、次に発作が起きたらどうすればいいんだろう、という不安を抱えながらの避難生活。身近に医師がいなくても、薬さえあればなんとかなるんじゃないか、いや、きっとなんとかなる、と思えるものだが、その頼みの綱が無くなってしまっているときの心細さはよくわかる気がする。

だが、何もかも流されちゃってるので、今までどんな薬を飲んでいたのか、どんな病歴があるのかが、たとえ被災地に医師が薬剤師が入ったとしても容易に把握できない。処置や処方に手間取ることになるし、薬の備蓄・在庫の管理が追いつかない。

これから日本はますます高齢化する、てことは、いざというときの医療・薬品分野での対応が一層必要とされる事態が容易に予想される、ということ。

で、そんなこんなを見たり聞いたりしていて思った。これから先、国民総背番号制をきちんと制度として立ち上げて、先ずはそこに電子カルテと運転免許証のデータを紐づけておくべきじゃないか、って。

こんなこと書いたり云ったりすると「個人の権利の侵害だ」とか「プライバシーが侵される」なんて反対する人が必ずいるんだけど、侵害されたり侵されたりする前に、自分が死んじゃったらどうしようもないだろ? と思うのだ。

あんた、そんなに悪いことしてんの? 脱税でもやってるの? と。

まぁ、こんな具合に考えるのは、私自身が社会的に無害でちっぽけな存在で、個人のアレコレを知られたところで「てへ、恥ずかしいなぁ」と舌をペロッと出して赤面する程度だからなのかもしれない。その程度の小市民てことです。

だったら、希望者だけでも国民総背番号制に参加する、てのはどうだろうか。( 限定的てことで「総」じゃないけど )

あと同時に必要なのは、災害に強い通信インフラ。そこで個人的にはまたもやPHSを押してしまうわけだが、マイクロセル方式にしてやれば、たとえ被害を受けたとしても、基地局が小規模になるので消費電力が少ないからバッテリや太陽光での充電で、延命が簡単になるだろう、と思うのだ。

アドホックネットワークとか飛行船とばして基地局にするとかもイイかな。

で、個人の生活ではスマホのようなネットに親和性の高い携帯端末を、税金投入してもいいから全国民に普及させる。そして、誰もが使いこなせるようなアプリとバックボーンを構築してやる、と。( アプリ作家のみなさん、出番ですよ )

それと、コミュニティラジオ局が強いかな、と思う。一斉同報の仕組みとして威力を発揮しそうだ。仕組みは簡単だし。だから、コミュニティラジオ局向けのコンテンツ制作なんてのが流行るかもしれないな。( あ〜、USENの中の人、聞いてる?)

ラジオは、携帯端末への一斉同報インフラとしても活用できそうだ。

で、先の「背番号」と個人の携帯端末を紐づけてやる。ついでに決済システムも紐づけてやる。何も背番号をそのままクレジットカードにくっつける必要はないわけで、携帯端末で紐付けや逆引きできるように、そしてその参照機能は携帯端末の持ち主の承認で可能になるようにしておけばいい。決済機能をくっつけとけば、いつでも持ち歩くでしょ?

国民総背番号を、その目的を「生き延びるための番号」と位置づけて構築する時期じゃないかなぁ。

【追記】
参考:脱中心型首都機能論とは何か? - 京極 真 : アゴラ - ライブドアブログ

| | トラックバック (0)

やっぱりPHSの解約はやめようと思う。

15年前からPHSを使っている。使い始めた当時は料金が安かったから、が契約の理由。それに当時は技術的にもケータイよりは優れていたのも選んだ理由だったかな。音がきれいだったし、その後も料金システムなどが先進的だった。なので、家族や親戚にもPHSを勧めて、いまのところ私の周囲はPHSで固めてある。

でも、その後のPHSの凋落は御存知の通りで、あ~あ、もうだめかな、ケータイにしちゃおうかな、と思っていた矢先の大震災だった。

当日、仕事に出ていた家人とのやり取りはPHSの電子メールと音声通話でおこなっていたけど、何の支障もなかった。が、ケータイは規制がかかっていたみたいでつながりにくかったらしい、ね? たぶんPHSのマイクロセル方式が本格的に威力を見せつけたんじゃないか、と思う。

いまでは年寄りも普通に携帯電話を使っているけど、ケータイでインターネットを使いこなせている人はどれくらいいるのだろうか。震災時、「携帯電話は持っていても、テレビを見たりネットを使う方法は知らない」ので一時避難場所として開放されていた公共施設の情報を得られなかった人が多かったんじゃないだろうか。

年寄りに「ネット使えよ」とか云うのは簡単だけど、日常的に使わないとすぐ忘れちゃうだろうし、そもそもそういう人たちは必要性を感じないから、問題意識も芽生えないし、だから使いこなすなんてムリ。

だったら、非常時につながりやすいPHSでいいんじゃね? と思うのだ。子どもや親戚、知り合いでネットを使いこなせる人たちから音声とかメールで情報を伝えてもらえばいい。メールを読むくらいのことは、うちの親(80代)でもできる。ムリにネットを使おうなんてしなくても、そうやって“身近な人メディア”を活用することを目指したほうがいいんじゃないかな、と思うのだ。

私の両親にはPHSを持たせてあるので、ネットを使えなくても取り敢えず私や家人が“メディア”になって“つながっている状態”を維持できると思う。なので、PHSの解約は見合わせることにする。「ケータイにしようかなぁ」と云っていた家人も「やっぱりやめられない」と翻意していた。

え? 私が“メディア”として機能できないんじゃどうしようもない、って? そう思って、固定電話を含め取り敢えず8回線用意して、そのうち5回線はモバイル利用できるようにしてある。もちろんキャリアを分散していることは云うまでもない( 自慢っ )。

【追記】
参考:災害時にPHSとSkype評価 規制少なく「つながる」 - ITmedia ニュース

現在、自家発電機の導入を検討中、既にバッテリ式の電源バックアップは完備してある。たぶんスマートグリッドが普及していたら、この努力も半分くらいで済むんだろうけど、ね。


| | トラックバック (0)

なんだか今年の桜はスカスカな気がする。「裏年」だって。

抗がん剤の副作用で足が痛くて、全然外に出られない日を送っているのだが、きょうは診察日ということで無理やり外出。普段の倍の時間を掛けてよたよた足を引きずってきた。

仕事にかまけてこの10年以上、地元の桜並木の満開を見に行くなんてことをしていなかったけど、出かけたついで、きょうは本当に久しぶりに駅向こうの千川通りに行ってみた。

が、あれれ? なんだか威勢が悪いぞ。南風が強くて吹き飛ばされた……にしては、花びらが舞っていないし、道にも落ちていない。なのに、花が少なくて枝が見え見えで……。

で、検索してみたら、桜には「裏年」というのがあって、今年はそれにあたっているんだそうだ。

へぇ、知らんかった。

来年は良い花、よい季節でありますように。

| | トラックバック (0)

募金、寄付のプラットフォームとかAPIとか。

私の関係しているサイトが、「東日本大震災への募金キャンペーンをしたい」ということで、ちょっとだけお手伝いしているんだけど、なかなか面倒。そのサイトの運営会社が所有している物販サイトで義援金を集めるのだが、クレジットカード会社の課金システムを使うので手数料が発生してしまう。なんかもったいないというか、人の不幸でクレジット会社を儲けさせるって構図、釈然としないなぁ。

たとえば千円の寄付金をいただいたとしても、数十円をクレジットカード会社に徴収されてしまうわけだ。だったら、郵便振込みで手数料ゼロのほうがよくね? いやいや、郵便局まで行く手間を考えれば、数十円の上前なんてたいしたことじゃないよ、とか、いろいろあるだろうけど。

で、思った。募金プラットフォームを作ればいいじゃん。たとえば、ネットマイルが「インターネットを利用する全ての企業が容易に義援金募集活動を開始できるプラットフォームを提供する」とかリリースしていて、これなんかはウェブページに JavaScriptタグを埋め込むことで、簡単に募金の入り口を作れる仕組みになるのかな? 

ただ、こいつの送金先は「日本赤十字社の実施する災害義援金窓口に寄付」ということで出口が固定されているわけだ。「税金の控除対象にはならないけどあしなが育英会にオレは寄付したいんだよぉ~」というときには使えない。

だったら、複数の募金の出口(=送金先 )に対応できるようにすればいい。

たとえば、そんな複数入口、複数出口に対応した募金プラットフォームがあるとしよう。日赤とか中央募金協会とかあしなが育英会が、それぞれそこに「出口」として登録する。

いっぽうで、私やあなたが管理しているサイトを募金プラットフォームに「入口」として登録する。登録すると「どの出口にしますか?」て選択肢が出て、好きに選ぶことができる。選んだ「出口」にあわせたスクリプトコードが発行されるから、私やあなたは自分のサイトのHTMLソースにそのコードをコピペすればいい。

すると、サイトにやってきたユーザにはちょうど Amazonのリンクのように募金の入口が表示されて、それをクリックするだけで簡単に募金することができる。決済方法はクレジットカードのほかに複数選べるようになっていると、ますます便利。Amazonのアカウントから支払ったりできるといいかもしれない。

「出口」を自由に選べることで、ネットに疎い団体でもネット上での募金活動をおこなうことができるようになるし、私やあなたは自分のサイトのテイストに合った募金主体を選ぶことができる。たとえば、ペットをテーマにしたサイトだったらWWFを「出口」に選べたりするわけだ。

この募金プラットフォームの提供会社(≒開発会社 )には募金のためのトラフィックが集まるわけで、そのトラフィックデータを換金した一部を振り込み手数料とすれば、ユーザにとっては手数料ゼロでクレジットカードで募金ができるということで納得感が出る。

こんな募金プラットフォームを誰か作ってくれないかな。……ていうか、もう誰か作ってそうだな。


| | トラックバック (0)

儲けるには差異を作り出せばいい、て理屈はわかる。けど…

なんだか小難しそうなことを考えている。

一言で云ってしまうと、“あり続けること”を目的として多様性を求める景色。

多様性は価値の交換で獲得できるが、価値とは差異のことであり、それは自分(達)と交換する相手(等)との間にある。その差異を作り出すために「経済性」というものがツールとして使われ、結果として自分(達)の基盤となるプラットフォームが形成される。差異(=価値 )は、このプラットフォームを基準として測られることになる。<例: ブランドを構想する>

プラットフォームは、それ自身が交換相手ともなり得る。プラットフォームと自分の間で価値の交換が行われることで、自分はプラットフォームの改変や変容の促進が可能になる。プラットフォームは別のプラットフォームに内包され得る。<例: ブランドを作るために社内コンセンサスを形成する>

価値の交換は、自分(達)と相手(等)との間に仮構される「物語」を通しておこなわれる。「物語」は価値交換のための暫定的なプラットフォーム(=文脈、チャンネル )となるが永続はしない。交換が終了すると同時に消失する。相手も独自のプラットフォームに載っているわけで、交換が終了すると双方のプラットフォーム間の差異が減ることになる。<例: 宣伝広告や店舗デザインなどマーケティングチャンネルを通して、商品をお買い上げいただく>

全ての存在はこのような構造で語りつくされ、全ての存在は存在し続けることを目的とする。目的に対する擬議は無意味である。

◇ ◇

この仕組みを使うと、友達との付き合いだろうと、国家間の戦争だろうと、お金儲けだろうと、自然災害だろうと、何でもかんでもひとつの枠組みで眺めることができるんじゃね? と思った。スコープ(=視点・視線・視野 )を適宜かえてやることで、この構造をどんなレベルでも見出せるかもしれない。遠目に見るとなんだかワケわかんないけど、近づいてやるとニッチな微小構造が見えてくる、とか。

そんな具合いに考えていると、戦争がコミュニケーションの一形態だと思えてくる。ただ、そのもたらす結果が殺伐としているわけだが、基本構造は同じ。だから「経営戦略」とか「販売戦略」ていう具合に軍事用語を使っちゃうのかな。

じゃあ、この仕組みで、次に何をどうするか、どうやって金儲けするか、なんて下世話なことがクローズアップされてくるわけだけど……、どうしたもんかな。構造を語ることと、それを実践に応用することの間にはものすごく深い溝があるみたいだ。


| | トラックバック (0)

水戸岡鋭治氏「自分の好みを超えて、正しく美しく楽しいことを作れる人」

どうして水戸岡さんのプロダクツを見ると、嬉しくて涙が出そうになるんだろう。自分の息子が、きっと喜んで駆け寄るだろうな、という列車。

久しぶりに新聞のテレビ欄を見たら“九州の列車”とあって、すぐに、あ、水戸岡さんだ、と分かった。たまたま見に行ったINAXギャラリーで好きになってしまって、デザイン本なんぞ何冊か買って、そしたら息子も鉄道好きになってしまったんだけど、その“動いている水戸岡さん”が見られるなぁ、ということで、本当に久しぶりにNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』を観てしまった。

そこで気に入ったあたりをメモ。

・「あったらいいな」を形にする。
・センスでも才能でもない。手間を惜しまない。
・本当にこれで喜んでくれるのか?
・公共のためのデザイン。デザイナーは公僕である。
・誰もやらないギリギリの仕事が来る、それが個人。
・公共空間とは対話のための空間。
・公共空間が贅沢でないと子どもは育たない。
・「そういうのは私も見たことがない」(椅子メーカーの担当者の言葉)
・進んでいるものを止められるのは僕しかいない。
・いつかは、きっと。いいものを。
・もうちょっと頑張って、完成させたい。

茂木さんが、九州の人はこんな贅沢な列車に乗っているの? みたいなことを云っているのを見て、そうだよ、水戸岡さんを選んだJR九州の人は偉いし、そんなところが九州なんだよ、と一人で勝手に自慢していた( 莫迦みたいだけど )。私の一族はそんな九州人なんだ( ほんと莫迦みたい )。

人とは記憶と論理から成り立っているのだとしたら( 実際、私はそうだと思っている )、その記憶を豊かにしなければ、豊かな人とはなり得ない——というのは正しいと思う。

人の記憶は、人や物や環境というオブジェクトが作り出す“物語”と、そこで交換される価値から生み出される。だから、その“物語”を豊かにすることで、人と人とが交換する価値も豊かになるのだと思う。

そんな仕事をしたいなぁ。

(あ〜、息子つれて九州行きたい)


プロフェッショナル 仕事の流儀
第160回 水戸岡鋭治氏
http://www.nhk.or.jp/professional/2011/0404/index.html


ちょっと古いけど(2008年) kanaean さんによる
「鳥の詩JR九州プロモーション完全版」
水戸岡印の列車が多数登場。内装シーンがもっと欲しいけど、それは実地で乗車して確認してね。


| | トラックバック (0)

« 2011年3月 | トップページ | 2011年8月 »