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2011年3月

自分の“故郷”を見つけて驚いた。

今朝、台所で野菜ジュースで薬を飲みながら考えていた。というか、思いついた。

放射能汚染で東京がやられてしまったら、住めなくなったとしたら? ん〜、あまり困らないかも。でも、小田原辺りまで住めなくなったとしたら、ひどく哀しいかも……。国道134号線、馬入川から城ヶ島までの辺りに二度と立ち入れなくなったとしたら、喪失感を味わうだろう、と気づいた。

たまたま朝の放送で、計画停電が今日はないよ、でも自家発電あるから停電になっても大丈夫だよ、というのを聴いて、ああ、湘南ビーチFMには自家発電があるというのは心強いなぁ、マリーナがあるからだろうか、無線とか灯台を維持するためには電力が必要だし、船艇の出し入れにも動力が必要だしなぁ、と考えた始めたのがきっかけなのだ。

いつでも聞き慣れたビーチFMが聴けるというのは心強い。つながってる感覚を維持できる。つながってる感覚を維持する、というのは、防災上重要な要件になるのかもしれないなぁ、とにかくつながっている、という感覚を防災行政の最優先課題にすべきなんじゃないかなぁ、と。

で、もし放射能汚染で湘南一帯が立ち入り禁止になったとしたら、私は酷い喪失感を味わうことだろう、と思い至った。そんな事態になれば当然ながら逗子・葉山なんてのも退避指示になって、葉山マリーナだって無人になる。スピーカの向こうに広がっているであろう相模湾が見えなくなってしまう。

それで気づいた。そこが私の「帰って行く場所」なんだ、と。

住んでいる東京がなくなろうと、当家由来の福岡がなくなろうと、はたまた憧れのヴェネツィアがなくなろうと、とにかく耐えることはできるだろうが、湘南が失われてしまったとしたら私は、どこにも帰れないオランダ人のように、彷徨い続けるんじゃないだろうか。

134号線の夏の混雑がどんなにばかばかしくても、海岸の砂が黒くても、自分の帰って行く場所はあそこなんだ、て。自転車でゆく湘南海岸は、子どもの頃の私にとっては、親や学校や日常生活から逃げ出すのに絶好の場所だった。特に、春休みの砂浜が好きだった。

そんなことに気づいて、ちょっと恐怖していた。愕然としたというところだろうか。自分にも故郷があったんだ……。失うという局面になって、そのものの価値に気づくというやつかな。成人するまでに、ひと所に6年以上住み続けることのなく、住んでいるところに愛着を持つこともなく、精神的に根無し草だと思っていた自分に見つけた意外なウィークポイント。

映画や物語の悲劇的な場面で「そんなとこ、さっさと捨てて逃げればいいじゃん」とか「土地にしがみつくって、なんかイケてないよなぁ」なんて漠然と思っていたんだけど、ようやくそんな“逃げられない人々”の気持ちがわかったような気がする。

今震災と原発事故で見つけた、自分の新しい側面と云える、のかな。

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twitterって、横丁みたいだな。

午前中の「プライムタイム」には、おおむねプログラミングとか企画書作りとかに費やすようにしている。自分にとって仕事に集中するのは朝がいいことがわかっているから。午後は頭がくたびれてくるので、プログラミングのような針仕事はできなくなる。バグの混入率が高くなって手戻りで無駄が増えるから。

昼ご飯を食べながら、GoogleReaderでフィードをチェックしつつ、面白い話は「はてブ」していく。はてブは twitterに連携するようにしてあるから、ブックマークすると即座に tweetされる。

だいたい千数百個のフィードタイトルを眺めて、ブックマークし終わるのに1~2時間。英文の込み入ったものを読んだりするともう少しかかるかもしれない。で、ようやく「はてブ」し終えたら、やれやれ、と Echofonを開いて twitterのfriends_timeline をザッと眺めていく。

このとき感じるのは、あ~ヤレヤレと伸びをしながら玄関の扉を開ける感覚なのだ。

twitterの TLを開くと、玄関の外は自分の住んでいる横丁で、いろんな人が外に出てきておしゃべりをしている。気楽なおしゃべり。よく知っているわけでもなく、けれども全然知らない人でもない。玄関の外にある手すりにもたれて、TLを眺めているだけでもいいし、時には DMされてうろたえたり、RTしたりリンクをたどってみたり。

気分が乗らないときには、玄関の扉を閉めたままでもかまわない。hatenaに代理 tweetさせて、自分自身は引きこもっていてもいい。別に、ビジネスを加速しなくてもいいや。

私にとってそこはクリティカルな場ではない。だから呑気な気分でいられる。ときどきはシリアスな内容を tweetしたりするけど、基本、そこはお気楽で見知った横丁なのだと思う。家族でも遠い親戚でもなく、かといって不特定多数の群集でもなく、なんだか宙ぶらりんな存在感の人々と自分、その曖昧な位置取りが魅力なのかなぁ、と。

たぶんこれからも TLをぼんやり眺めるんだと思う。


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やっぱりでかい本棚が欲しい。

いまさらだけど、昨日到着した『グローバルリーダーの条件』( 大前研一、船川淳志共著、PHP研究所、2009年 )を読了。対談で軽い内容だった。これまで読んできた大前研一の復習のような感じで、まぁ心情的には刺激されてイイんだけど、本当に役立つ本かというと疑問符。大前とかドラッカーとか普通に読んでいる人には不要だな。時間の無駄かもしれない。だから一刷なのかな。

それに、大前、船川両氏の一種“馴れ合い”的雰囲気にも違和感を感じた。編集のせいだろうか。ちょっと甘すぎない? もうちょっと苦くてもイイんだけど。

むしろ対談とかじゃなくて、インドの誰々はこうだった、とか具体的な事例を列挙したケーススタディ本とかの方が面白いんじゃないかな。これまでの大前本から、そんなもの達を抜き出して一冊の本として再構成するといいかもしれない。

ちなみに自分の中では、大前研一氏は既にドラッカー化している。

もひとつついでに、手元に長らく転がっていた藤澤克己著『いのちの問答』( 幻冬舎、2011年 )は、買っては見たけれど、いまは読む時期じゃないなぁ、と。四半世紀前の“悩める大学生”だった頃ならいざ知らず、今ではこういうのを既に卒業していて、あとは年老いて何もできなくなったときに読むものかな、と。冬の陽だまりや夏の木陰のような本だ。

歩けるときには歩けばいい。

それにしても、電子本よりはヤッパリ紙の本の方が好きだなぁ、と思うのだ。紙の本を手にとってソファにくつろいで、ぼんやりと読んでいくというのがいい。iPad も Kindle も素晴らしいけれども、紙の本が与えてくれる手触りとか音とか匂いとか、そんなものたちが素敵なんだと思う。読書体験って、実は五感を無視できない? これからさき紙の本は香りで勝負するようになるかな。茶色く変色している、触るともろくも壊れてしまいそうな古本の甘い香りが好きだ。

だから、私にとっては電子本はあくまでも次善の策。できれば広大な書棚空間を手に入れて、自分の本はすべてそこに収納する、という生活を送りたいもんだ。図書館に棲みつくという渡部昇一的生活が理想。まぁ、高校時代に渡部昇一読んで、おかげで「社会人」失格的人生になっちゃったんだけど……それは余談。

いまの私は貧乏なので、プライオリティが低いと判断した本は自炊している。2千冊を仕分けて6割は自炊、が現在の目標だけど、なかなか進まない。今回の震災で崩れた本の山もそのままだし……。さきの『グローバルリーダーの条件』と『いのちの問答』は自炊する。残念ながら空間占有してまで保存する本ではない、いまのところは。

内容が悪いということじゃなくて、いまの私にはあまり必要ない、ということ。“すべての存在は自らの存在を不要にすべく他者に向けて機能する”という視点で見れば既に彼らは目的を達している。


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創造的な断絶として震災と原発事故をとらえてみる。

イノベーションとは、一種の断絶だと思う。自分の側や、自分を取り巻く世界が、不連続に変化してしまう。こんなエントリを書くと「被災された方々に不謹慎だ」と叱られるかもしれない。でも今こそ考えねばならない、いま考えなかったらいつ考えるのか、と思うのだ。

この震災と、それによって引き起こされた事故、それが暴露した様々な矛盾は、自分と、自分が生きている世界の両方に起きている断絶の瞬間であり、それをイノベーションの契機とすべきなのではないか、ということ。喪失や苦悩で哀しんでいる人に無理やり「やれ」というのではない。幸いにも助かってしまった私たちのような人間が、向かい風にむかって顔を上げて進むべきなんじゃないか、ということ。

そんなカッコいいこと云わなくても、変わらねばならない瞬間はやってくる。明らかにわかっていることは、この夏は「これまで」のような冷房に期待すべきではない、ということ。( いきなり話が卑近になって申し訳ない )

既に節電のために通勤電車の混雑が「普通」でなくなっている。そして、圧倒的な電力不足の予測が具体的な数字で示されている。これほど明らかに確実な“予言”されている変化、断絶を前にして何もしない、「これまで」とか「普通」の生活をただ待っているだけ、というのは能が無い。

たとえば在宅勤務、夜間操業、サテライトオフィス、別の土地での生活――などなど。もしかしたら、これまで望んでいたけど実現できなかったことができるかもしれない、と捉えたい。

今回の震災や事故に意味を見出したり、意味を与えたりできるのは、人間の特権なのだから。自然の猛威や、既得権益にしがみつく人たちに「やらずぶったくり」されてるだけじゃないことを見せてやろうじゃんか。


首都圏の夏季電力不足に備える節電の本丸は大規模事業所 : アゴラ - ライブドアブログ

震災前、震災後 - 業界人間ベム
「政府や企業や個人、いろんなレベルで「踏ん切り」がつくのです。いろいろ従来のしがらみで決断できずにいたことがらが、先送りできなくなるのです」

オープンホームプロジェクト - Open Home Project
「このたび欧州各地の方々が部屋を解放し、日本から一時的ホームステイを希望する方々を受け入れる運動を起こすことにしました」

東日本大震災で石垣への自主避難者増える - 石垣経済新聞


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こだわりを脱ぎ捨てる2011年。

この夏は電力不足で冷房が期待できないから、もう、アロハ通勤をオフィシャルにしちゃって( 条例でも何でもいいよ )、移動できるやつはパソコン抱えて沖縄とか北海道とかに逃げちゃえばいいんだよ。北九州なんか経済活性化の好機じゃんか。九州に逃げちゃうかな、息子連れて。家人も出勤の時だけ東京にやってきて、あとは九州でのんびりと過ごすというのはどうだろうか。

そういう利用のために、「夏休み節電往復回数券」みたいな航空券が出ると便利だろうな。

移動できない病人とか年寄りのために東京・首都圏の電力は残してやって、移動できる人間は別の土地に移動する。で、夏が終ってほとぼりが冷めた頃に東京に戻ってくる。もしかしたらその頃までには、「オレの仕事って、何も東京でやることないぢゃん」とか気づいているかもしれない。

東京にこだわることはない、という意識からスタートして、あれ? もしかしてオレの仕事って、世界でも通用する? なんてのが( 勘違いでもイイから )出てきそうな気がする。ならば外貨を稼ぐこと出来るじゃん、とか。勘違い君がたくさん出現したとしても、本当に世界で通用する人も登場しやすいからイイとしよう。

2011年は、日本人が「こだわり」を洗濯する年になりそうだ。


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ダイヤブロックジュニアの車輪を増強してみた。

連日の震災関連報道で、3歳の息子はうんざりしている。そりゃそうだ。大人が真剣に、そして暗い表情になりがちだから。それでも慰めがあるとすれば、テレビ画面に時々映し出されるヘリコプターや特殊車両かもしれない。画面に登場する輸送ヘリや大きな消防車を見ては「あれ つくって!」と。

我が家ではダイヤブロックジュニアの「きほんのバケツL」で遊ばせている。これには車輪が4個ついた赤い台車が1個ついているのだが、当然ながら足りない。ということで、家人がもうひとつ「バケツL」を買ってしまった。これで台車2個。車輪のパーツを手に入れるために同じ商品をもうひとつ買ってしまうなんてどうかしているかもしれないけど、息子も親も「車輪が足りない」と欲求不満だったから、当面の解決策としては効果があった。

が、ブロックでいろいろな乗り物を作るのに馴れてきた息子は「もっと しゃりんが ほしい」と要求するようになった。人間の欲望は限りない。まぁ、親も「もっと複雑なものを作りたい」と欲張るようになってきていたことだし( どっちが子どもがわからん )。

しかし、車輪パーツを手に入れるために、さらに「きほんのバケツL」を買い足すほどウチは広くない。そこで考えた。「模型の車輪が使えないかな?」

で、Amazonで検索してみたら、タミヤの「楽しい工作シリーズ No.101 トラックタイヤ 36mm」というのを見つけた。最初に1個だけ試しに買ってみたら、なかなかいい。なので、さらに3個を追加購入。震災後のこの大変な時に、宅配便業者のリソースを使って申し訳ないんだけど。

ということで、以下製作メモ。作り方は簡単。

ダイヤブロックの適当なブロックを選んで、直径3ミリの穴を開けて通すだけ。ブロックはプラスティックなので、錐(きり)のような適当な道具で穴あけしてやればいい。

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車輪が軽く回るように、穴は少しだけ大きめにする。穴あけのイチは適当に。あまりブロックの縁に近いとブロックにひびが入ってしまうかもしれないから気をつける。写真は縁から6ミリほどのところにあけた状態。

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車軸を通してタイヤを取り付けるとこんな具合。タイヤはぴったりはめ込んでしまうとブロックとの摩擦で回りにくくなるので、心持ちゆるめに。

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合計8組の車輪パーツを自作した。こんな具合に使える。

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これでしばらくの間は遊べることだろう。父親がパーツを作っている間にお昼寝モードに突入してしまった息子だが、目覚めたときが楽しみ。渋谷模型さん、ありがとう。それと Amazon.co.jp と配達してくれた佐川急便にも。こんな大変なときにつまらないものを注文してしまって、ごめんなさい。

それに、「えだのかんぼうちょうかん」とか「しーべると」なんてニコニコしながら唱えている息子にも。こんなコトバを3歳児に憶えさせるような世界を作ってしまって、本当にゴメン。こんなアホタレな世界を許してしまったのは私の責任だ。

福島原発で頑張っている人たちにエールを送ります。息子がこんな絵を描いてくれました。ガンバレ、て。

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私たちはもっと先にゆかねば。

無用な自粛はすべきでない、消費を止めるべきではない、という意見は良いんだけど、「普通の生活に戻ろう」とか「いつもどおりに楽しもう」というのは能がないと思う。「普通」とか「いつも」に戻るんだったら、結局もとの“不景気”に戻るだけじゃんか。それよりも、もっとその先にゆくべきじゃんか、と。

そんな「普通」を語る人は、おそらくこれまでうまい汁を吸ってきたから、「これまでどおり」の「普通」に戻りたいんだろうなぁ、と意地悪く考えてしまう。「これまで」以上に進んでしまったら、「これまで」の自分のシステムが通用しないかもしれないから。そんな人達は「これまで」に均衡してもらいたいんだろうなぁ、と思うのだ。

一部の有名な人達がそんなこと云っていて、表向きは正論だから概ね賛成なんだけど、でも、どうしてもオカネ臭いんだよね。均衡点を無理やり自分の所に持ってこようとしているんじゃないか、と勘ぐりたくなる。その点、私のような無名の人間には、均衡点を合わせるような“質量”はないから、何を云っても無害。

巷には自粛ではなくて「萎縮」とか「縮退」する傾向があるけど、それは目立ちたくない、叩かれたくないという意識の裏返しなんじゃないかな、と。「これまで」を維持したいのかな、と。

私が目指したいのは、被災した人達の苦労とか努力とかそれを助ける人達を応援したり支援するのを否定することじゃなくて、自分にできることを精一杯やるということ。

自分に出来もしないことなのに、無理やりしゃしゃり出て、一所懸命に頑張ってる人達を邪魔することは支援とか応援ではない。単なる押し売りと変わらない。恩を押し売りして自己満足を得ようというのは、「萎縮的自粛」でやり過ごそうというのと動機の深いレベルで同じなんだと思う。

つまりは、「これまで」の「普通」のレベルを保ちたいということで、云ってみれば思考停止のスタイルなんじゃないかな。

間引き運転で超満員の電車に乗って無理して会社に出て行くとか、あわてて自転車買って駅前の病院前の歩道に乗り捨てて通勤しちゃうとか、根は同じなんだろう。「これまで」とか「普通」を信頼している限り、元の不愉快な毎日に戻るだけだと思う。不愉快で不景気な日本に。

私たちはもっと先にゆかねば。

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自分を越えて、意味を見つけ出すこと。それが人かもしれない

このたびの震災で被災された方々にお見舞い申し上げるとともに
なくなられた方のご冥福をお祈りいたします

◇ ◇

やっぱり、私は自分から思考がスタートする性根持ちなので、計画停電でどれくらいの面倒が増えるのか、なんてことを考えてしまう。ああ、充電できるときに充電できるものを充電しとかなきゃ、なんて。

けど、やがて、そんな自分、自分の家族、自分の周囲、地域社会なんて枠を越えていって、思考を首都圏とか被災地の人達とか、壊されてしまったその人達の日常だとか、救援・救出活動をしている人達や海外からの支援だとか、そんなところに思いを広げざるを得ない。

私は東京にくらし、直接の被災者ではないし( 家人は帰宅難民になったけど )、持病持ちで化学療法の副作用に悩まされているのでボランティアに向かうこともできない。ウェブで何かやろうとしたってタカが知れているし、そもそも救援・支援サービスなんてのを素早く作ってしまう若い人達がたくさんいるので、私自体は何の役にも立たない。

せいぜい、オンラインで募金に寄付するくらいなのだ。

けれども、今回の震災と、それにまつわる人々、そして語られることを見聞きしていると、この東北関東大震災というやつに、何かの意味を見出さざるを得ない気持ちになるのだ。これは何かの罰なのではないか、何かを啓示しているのではないか、これは何かの転機なのではないか、と。

事象としては、ひとりの人間の運命とか生命が文字通りチリのように消し飛んでしまう、単なる自然現象なのだが、そこに自分から敷衍して、関わらざるを得なくなってしまった人々の思い、悔しさ悲しさ怒り、そして、平然と力を行使してしまう自然の意志なんてものを考えてしまう。

それが人としての理由なんだろう、と思うのだ。

始まったばかりで、まだまだ大変な日々が続くわけだが( 頭のどこかに“普通の生活”がちらついているんだけど )、これを再び「いつもの日常」に戻すのみならず、ゼロから考えつつ、「いつもの日常」のその先に進むにはどうすればいいのか、を、役に立てない私は考えたいと思うのだ。イライラする「いつもの日常」に戻るだけでは、失くしてしまったもの、亡くなってしまった者が浮かばれない( もちろん、この感覚だって私の身勝手かもしれないけど )。

3月11日に意味を見出すのも、意味を与えるのも、私たち人に与えられた課題であり、チャンスなのだと思う。

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街の本屋がヘタレだ。生き残るのは至難のわざ?

先日、私の勤務する会社が入っているビルの書店が店を畳んだ

東京・千代田区にあるビルの中の一角にある小さな書店だったが、ビジネス書を中心とした品揃えで、昼休みや仕事の合間には結構役立つ存在だったと思う。昼休み時間には店内がかなり混んでいるように見えた。私自身はここ数年、Amazonで買うようになっていたけど、ちょっとショック。この跡地はどうなるのか知らない。ある日、入口のガラス戸に閉店を知らせる貼り紙が一枚、電気を消されて暗い店内には書棚と本がそのまま残されていた。

ここはバリバリの“都心”の一等地で、同じビルにある飲食店街に周囲のオフィス街からオフィスワーカーが昼飯を食いに大勢やってくる、というような場所なのに。実は、ビジネス書とか売れてないのかな。私と同じように、みんな Amazonに注文するのかな。

いっぽうで近所の商店街にあった書店は数年前にさっさと店じまいしてしまったけど、個人的に問題外だった。欲しい本や雑誌を置いていない。マンガの単行本は結構そろっていたけど。

じゃぁ、かろうじて商圏に引っかかる池袋のリブロやジュンク堂はどうかというと、基本的に出向くのが面倒くさい。通勤経路上だけど、地下鉄降りてわざわざ寄るなんてゆとりはない。そもそも、あの池袋駅の混雑の中を歩くのが嫌だ。加えて、店としては努力しているんだろうけど、いわゆる「書店員のセレクト」なんてのが煩わしい。人の読書の趣味とか、私には関係ない。ポップなんかじゃなくて、品揃えと排架の妙で勝負してもらいたいな、私としては。

どんな本があるか、どんな内容なのか、この本を読んでいる人はどんな本を読んでいるのか、という情報はネットで手に入ってしまう。

ところで、出版社のウェブサイトは情報の更新が遅いことが多いね。雑誌とか発売日に内容をチェックして買うか買わないかを決めたいんだけど、昼休みにウェブサイトに行ってみると前号の表紙が“最新号”なんて銘打って掲げられていたりしてガッカリする。

だから、雑誌の最新号をチェックするのに Amazonを使っている。表紙の写真が出ていて、それを見れば内容のおおよその見当がつく。それに異なる出版社のものでも、Amazonで網羅的に見ることができてしまう。だから、Amazonで雑誌を買ってしまう。当日か翌日には自宅や職場に配達してくれるし。

たとえば雑誌『クウネル』の表紙画像とかはこんな感じで、拡大すれば表紙の文字が読める。

拡大できるクウネルの表紙画像@Aamzon

だからといって出版社のみなさん、「表紙写真で内容がわからないようにしよう」なんて考えないほうがいいですよ。わからなくなったら買わなくなるだけだから。

そもそも自分に時間がない。仕事して、子供の相手して、家事をやって、ビデオやテレビを見る時間もないのに、書店で本を探すとか眺めるなんてのは論外。自宅の最寄り駅に大型書店があればいいかもしれないけど、実際は無い。

( ところで地下鉄の一見ムダな空間を書店にする、ってのはどうですか? 地下鉄を在庫の流通ルートにしてやればよさそうに思われる。道路占用許可とか何とか云っているうちに、日本の知的レベルとか生活レベルがどんどん落ちるだけですよ > 行政の人々)

大学生時代、住んでいた茨城にはでかい駐車場つきの書店があった。大学町で周囲には国や民間の研究所がたくさんあって、学生、教員、研究者といったぐあいに客層がそろっているので、本の品ぞろえにハズレが少なかった。学生だったから時間もあったので、本屋に入り浸ってたなぁ。本屋さんていいなぁ、と子どもの頃から思っていたから、あんな書店が身近にあるのがうれしかった( 友朋堂がお気に入りだった )。

いっぽうで、いま住んでいる地元には大学が三つもあるのに、どうして本屋過疎地なんだ? というのは置いておこう。学生が本を読まなくなった、なんてのも放っておこう。地元書店が生き残るには、地域性を根拠とした品揃えで勝負するのだろうが、当地のように古くからある住宅街の中に学生街が混じりこんでいる立地条件は難しいかもしれないし、だから適当な書店がない学生さんは池袋に出て本を買っているんだろうし( 学生生協もあるか )。

まぁ、いずれにせよ何らかの特徴がないとやっていけないは確かなことで、じゃぁ、最後の手段=「安売り」はどうなんだろ。再販価格の維持とかいうアホらしい古臭いルールがあるから、結局のところ古本屋( 古書店 )てことになるんだろうけど。

けど、本の電子化( 自炊も含めた )が進めば、古書の大前提となる紙の本自体が市中からなくなる。出版社が電子書籍を進める速度+個人が自炊する速度を足し合わせると、さっさと古書が減って古紙が増えることだろう。いずれにせよ、“電子書籍は敵”か。

だとすると、電子化されないような本の企画が必要になるんだろう。もうこうなると、書店だけの努力じゃなくて、出版界、印刷製本屋、それに読書人が束になってかからないと書店は絶滅決定種になるんだろうな( もうなってる?)。しかし、ネットの普及が物事のニッチ化を促進して、希少本の売り買いがネットオークションに移行していくのだとしたら、古書店も絶滅決定種じゃん。生き残るのは無店舗ネット古書店か?

物理的な“地元”という商圏に拘束される書店に、希少本というニッチ商品は利益をもたらさない。コストばかりかかる。

◇ ◇

でも、こんなこと考えてみても、希少本というニッチが残されている書店業界は、まだ幸いなのかもしれない。古新聞なんて誰も買ってくれないからね。

いまのようなスタイルの新聞は鮮度が命。本よりも状況は深刻なんだと思う。たぶん今後十年間くらいで、思い切りの良さと動きの素早さが勝負を決めるだろう。2011年春という現在はまだまだ見合っている状態だけど、変わるときは早いだろうな。

そのとき、過去のデータをどれくらい大量にネットで再利用できるように用意していたか、それを元手に新しい何かを生み出せる体制が整っているか、が分かれ目になるような気がする。


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iPadの 10ヶ月私見(試験)と、次はどうしようか、ってこと

昨年 2010年の 5月28日(金)に日本国内で iPad が発売されて、そろそろ10ヶ月。当初は iPad を買っちまうか、それともジックリと待って Android のタブレットを待つか、と相当悩んでいた。

アプリを作りやすい点では Appleにコントロールされない Android なんだろうけど、そもそも「タブレット」というスタイルが皆目わからない。いったい、日常生活にどのような影響を与えるのかについては、早く自分で体験して知りたい――と思っていた。で、結局のところ発売から 2週間ほどで iPad を買っちまったわけだけど、最初のひと月くらいはあまり使わなかったように記憶している。

どのように使ったらいいのか、自分自身でわからなかったのだ。

20年前に SII の NOTE2 なんてのを鞄に入れて持ち歩いてたけど、結局あれはワープロだったわけだし、全然参考にならない。

昨年の iPad 発売当時、会社の偉い人はさっさと iPad を手に入れていじり回し現場にコンテンツ開発をやらせてたけど、その偉い人が独り占めしているので、現場は実機がないまま開発していた――という事実は、まぁ、どうでもいい。会社が iPad などの新しいデバイスの購入補助をしてくれない、というのもどうでもいい。ネットを主戦場とする業務内容なのに、その辺の意識が低い、というのもどうでもいい。( 愚痴と皮肉じゃ )

一番の関心事は、タブレットというスタイルだった。これが日常生活に何をもたらすのか。特に、読書体験がどのように快適になるのか/ならないのか。そう。当時は「読書」すなわち「電子書籍」という見方しかできなかった。

が、この10ヶ月でいろいろアプリを突っ込んだり、Kindle 試したり、MacBookAir とか iPhone とか情報環境に投資をして、アレコレつないでみてわかってきたことがある。

ネットで探したり読んだり、それを記録するなら iPad で十分だ――ということ。もう電子書籍なんかはどうでもよくて、そんなもんは意識レベルでは既にデフォルトにまで低くなっている。デバイスに電子書籍のリーダーがあって当然、というレベル。それよりも、ネットの情報をフィードに加工して GoogleReader に読み込み、Feeddler で流しながら Twitter に流したり、はてブ して自動で Twitter に流したり、スターをつけてあとでジックリ読んだりする。それもソファでくつろぎながら……なんて使い方には iPad が一番合っている。

いや、それだけではない。

FTP On The Go という FTPクライアントを使ってやると、ちょっとしたウェブのメンテなんてのができてしまうじゃないか、コラぁ。Googleの各種ツール、有料・無料のレンタルサーバ、ネットのストレージサービスなんていう、いわゆる SaaS とか“クラウド”(雲)を使ってやれば、自分のマシンにデータを保存する必要もない。

ネットの接続環境さえ確保しておけばいい。そのキャリア各社も料金を下げてきていてしかも高速化してきている。

パソコンだけではできなかったスタイル、思い描きながらも実現性は低いよな~と思っていたスタイルが、iPad を自分の情報環境のコアに置いてやることで一気に可能になってしまった。

正直言っちゃおう。

私の会社での仕事なんて、iPad と iPhone があれば、おおかたできちゃうよ( 本気でやろうと思えば、ね )。

そりゃ、もちろん、デザイニングだとかDTMだとかコーデング、まとまった分量のライティングなんかには従来の「パソコン」というスタイルが必須なのは変わらない。だけど、そこにぶち込む素材集めが物凄く身軽になった。だから、自分としては仕事のかなり大きな部分が場所に縛られなくなった。そのようなスタイルを可能にしてくれたのは、ザックリ云っちゃえば iPad と Google のおかげなんだ。

ということで、およそ10ヶ月前の疑問――「いったい、日常生活にどのような影響を与えるのか」については、自分なりの答えを見つけられたと思っている。

だから、次にやることは、こんなスタイルで働く人たちを増やすにはどうするか、増えたときに何をするか、ということなんだと思っている。

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Adobe Flash Playerのインストーラーがわかりにくい

(この記事には【追記】があります。)

ここ最近、Adobe Flash Playerの自動アップデートが何回か走っていて、インストールのダイアログが「わかりにくいなぁ」と思ったのでメモ。

次のような画面が出てくる。

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まず「同意しました」のチェックボックスがわかりにくい。見た目のカッコよさを狙ったかなんだか知らないけど、背景の暗いグレーに溶け込むような色合いのチェックボックスで、グラデーションの色味の違いと黒の枠線でなんとなくわかる。でも、その直下にある「終了」ボタンの方が目立ってしまって、ダイアログ全体のあまり楽しさを感じられない雰囲気で、うっかり「終了」を押してしまいそうだ。「なんかヤバそうだから、とりあえず終了しとくか」って。

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無事に「同意」のチェックボックスをクリックすると「インストール」が押せるようになる。ここはいいんだけど、Flash Playerを呼び出すウェブブラウザが起動していると、終了することを促される。たとえば FireFoxが走っているとこんな画面が出る。

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まず文言が悪いね。

「これらの競合するアプリケーションを閉じると、インストーラーは自動的に続行されます」

ひどい表現だ。エンジニアが考えるとこういう文章になってしまう。言っていることは正しいんだけど。自分がアプリを書く人間で、これまでにこういう表現を使ってしまったことがあるので、この辺の事情がわからないでもないけど。

何が悪いかというと、「次に○○○をやってください」という指示スタイルになっていないことだ。「いま△△△です」といわれても「で?」と思ってしまう。じゃぁ、どうすればいいの? て。

確かに「閉じると、続行されます」なんだけど、これは「閉じてください。そうしたら続行します」とすべきだし、「閉じてください」だけじゃなくて「すべてのウィンドウを閉じてください」とすべき。もっと親切にするには、

「Mozilla Firefox のすべてのウィンドウを閉じてください。ウィンドウが閉じていることをインストーラーが確認したら、自動でインストールの残りが続行されます」

とすべき( この書き方だってこなれてないけど )。ほんとはこんなダイアログなんて不要なくらい、全自動でインストーラーには動いてもらいたいとこなんだけど、ね。

でもこのとき「いまブラウザを閉じられると困るんだよなぁ」というユーザのために「後でインストールを続行する」という選択肢が提示されるべきなんだよな。「後で、ウィンドウをすべて閉じたときに、インストールを続行します」という方法があって然るべきだと思う。

それに、ブラウザとかの競合するプログラムを終了するまでこの画面が出たままになるので、急いでいたりするとついつい「終了」をクリックして、結果としてインストールを中断することになる。

無事にインストールが終了すると、

040

こういう表示がされるんだけど、果たしてここまでたどり着けた人はどれくらいいるんだろうか。ちょっとPCの操作に不慣れな人とか、急いでいる人とかは、最後までいけないんじゃないだろうか。私も、最初にこのインストーラに出会ったとき、「これらの競合する……」で、ついつい「終了」をクリックしてしまったよ。

たぶん“負のアフォーダンス”が強いんだな。

アメーバピグでの「ログインできない」てやつも、これが原因なのがいくらか含まれてるかもしれんね。


【追記】(2011-09-07)
その後、当然ですが、改善されているようです。ということで——
▼ Adobe Flash Playerのインストーラーがわかりやすくなっている。
http://www.tafworks.com/2011/09/adobe-flash-pla.html


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在宅ワークして、わかったこと

この2週間ほど、断続的に在宅ワークをしてみて体験できたこと。

【結論】
私的には最適な働き方じゃないか? できればずっと続けたい。

【前提】
私の仕事の内容はネットで何か面白いものが無いかな、面白いことができるかな、というのを探したり調べたり考えたりプログラムのプロトタイプを作ったりすること――なので、ネットとパソコンがあればできてしまう仕事だというのがポイントかもしれない。

これが工場のラインで働くとか、営業で歩き回らねばならないとか、交渉担当で会議が連続するとかの、他人と密接に連携しなければならない仕事だと、“現場”に行かねばならないから在宅ワークは不可能だろうし、そういった仕事が得意だとか好きだという人には、ひとりきりで過ごす在宅ワークは苦痛でしかないのだろう。

寂しがり屋の人には向いていない。( 自分が寂しがり屋かどうかはこちらでチェック )

【事情】
昨年、ガンの手術を受けて現在も再発予防のための抗癌剤療法を続けているので、薬の副作用がいろいろ出てくきて結構わずらわしい。痛みなどの副作用で体調が外出向きでないので、だったらムリして通勤しないで在宅ワークはどうだろうか、ということ。前述の通り、私の仕事内容が在宅ワーク向きだったことが幸いした。

まぁ、会議だとか面談だとか取材だとか応接だとか苦手だし、他人が決めた単純な仕事も嫌いだし、ということで私の人生自体が在宅ワーク向きの現在の仕事に流れ着いていたから当然といえば当然なわけだけど。

それと会社の理解があったということも重要な要素なんだろう。これが無かったら単なる「欠勤」でしかない。家族構成によっては家族の理解も必要かな。

【メリットとデメリット】
まず通勤費がいらない。まぁ、通勤定期を買ってしまっているから、その分がムダになっているわけだけど、最初から在宅ワークを前提とするなら通勤費がいらなくなるし、会社も支給しなくて良くなるから双方にとっていいのではないかな。

お金がかからないということなら、通勤のための服が要らなくなる。もともとジーパンにTシャツだったので、この辺のメリットを私自身は実感していない。数年前はスーツを着ていたけど、社外の人に会う仕事でもないので( そういうのは上役が全部やってくれる )ばかばかしくなってやめた。IT系の人達と会うときもTシャツの上にジャケットを羽織ればいいくらい。業界的に恵まれている。

次に、食費が安くなる。外で昼飯を食べるのにくらべれば、半分から3分の一だ。週末にまとめ買いした冷凍食品を電子レンジで温めるとか、レトルト食品やスーパーの惣菜に自分でちょっと手を加えるとかの手間は必要だけど、それだって仕事の合間の気分転換になる。

自宅で過ごすので、自分にとってのお気に入りの快適な環境で働ける。これがもっとも重要な在宅ワークのメリットかもしれない。ちょっと疲れたら数歩あるいて自分だけのソファでくつろげるし、飲み物はほとんど無料に近く飲み放題。ネットラジオで音楽を流し、温度・湿度といった空調を調整できるから、年間を通して摂氏30度の会社で働く、なんて莫迦げた状況とは無縁だ。

そしてなんといっても騒音がない。

会社では常に人が動き回り、電話が鳴り、椅子の軋み音、コピー機やプリンタの動作音に加えて、トナーカートリッジをゆすったり給紙トレイの開閉音などがしていて集中できない。一番の邪魔者は、直接話しかけてきたり電話をかけてくる輩だ。プログラムを書いていてバグがコードに混入する最大原因になる。

「話かけてもいいですか?」、って、もう話しかけてんじゃんかよスカタン!、と心の中で罵りながら笑顔を作るというのは、どうしようもないストレスだ。( そのせいでガンになったのかな?)

ただ、在宅ワークは集中しやすいだけあって、ついつい集中しすぎて仕事をしすぎるという危険があることもわかった。会社に通勤するときのヘドロのようなどろどろの気持ち悪い徒労感ではないけれども、夕方になると脳がくたびれているという疲労感が会社より強い。

「やっぱり、打合せとかは対面じゃないとだめなんじゃない?」と思われるかもしれない。たしかにその通り。ちょっとしたニュアンスが必要な微妙な話とか、社内政治に関することとか、パソコンのモニタ越しのひと言ふた言の“職場の潤滑油”的軽い雑談だとかは、対面でないと成立しない。

が、そんなデメリットを補っても在宅ワークにはメリットがある。( ていうか、それってデメリットか? やめちまえばいいだけのハナシじゃないかな。仕事の本質じゃないもんな )

同僚との物理的な距離があるので、直接話しかけることがなくなる。いまのところコミュニケーションのほとんどは電子メールを使っているが、これが“再考”の余地を与えてくれるのだ。脊髄反射ではなく、状況とか文面をじっくりと考えてから返事をするだけのゆとりができる。

それから、やり取りのすべてがメールのメッセージとして記録される。あとから検索することで、それを探し出せるというのは大きなメリットになる。ちょっとしたシステムの変更だとか、ソフトの操作方法のティップスだとか、そんなものも記録残ると、あとから仕事のデータベースとして使えるのだ。云った云わないがなくなる。

ま、検索なんてことしないレトロスペクティヴな人にはピンと来ないだろうけど。

それに、Skypeのテレビ電話機能だとか、GoogleやYahooのチャットやメッセンジャー、社内つぶやきができる Yammerとか Smart4Bのような Twitterみたいなツールを使ったら、対面に近いコミュニケーションができるんじゃないかな。この辺は今後の研究課題。

◇ ◇

それと、前提条件として大事なことがあった。クラウドコンピューティング( Cloud Computing )が当たり前の時代になってきた、ということ。もしかしたらこれが一番大事かもしれない。

私の仕事環境は、ほとんどを Googleの各種サービスにデータを預けてある。メールは Gmailだし、書類やスプレッドシートやプレゼン資料は GoogleDocs。そして会社では GoogleAppsの有料版を契約してある。スケジュールの設定や共有が Googleカレンダーでできてしまう。

「きょうは在宅でリモートワークです」と、当日の朝にメールで上司に知らせ、ついでに GoogleAppsのカレンダーにその旨書き込んでおけば、上司以外の人にイチイチ連絡する必要もない。

Facebookがソーシャルネットワークを促進するともてはやされているが、Googleは在宅ワークを後押ししてくれるんだろうと思う。だから余談になるけど Facebook vs Googleという構図で考えている人は、たぶんピンボケで世界を見ているんだろうなぁ。両社たがいに全然性格が違うんだから。Facebookで在宅ワークはできないよ。

他にも Evernoteとか Dropboxとかある。サーバの知識がある人なら、レンタルサーバを月500円くらいで借りてそこを自分専用のストレージに使えるだろうし、だいたい最近は MySQLとか Wordpressのインストールキットが付いているので、倉庫兼店舗としてウェブサイトを開くこともできる。

どうしても不安だという人のために、週に1~2回くらいはフレックスタイムで出社するとか方法もあるだろうし、何も会社まで行かなくても上司の外出予定とタイミングを合わせて、どこかのカフェでミニミーティングなんて選択肢だって可能だろう。

( そうか。在宅ワークが増えると、街中に関連ビジネスを展開できるね。ミーティングスペース付きのカフェとか増えそうだ。もちろんWi-Fiと電源とホワイトボードとプロジェクタ貸し出し可能で )

◇ ◇

【今後の課題】
小手先の課題としては、SkypeやらDropboxといったツールを使って何をどこまでできるかを検証すること。できれば会社の人たちにもすすめて使ってもらうこと。

長期的な課題としては、在宅ワークが日本で促進されたときに仕事の世界がどのように変容しているのかを考えること。できればそれに対応したビジネスを展開できればなぁ、と。ただしここにはリスクもあって、そんな世の中になったとき、果たして当社の存在価値が残っているんだろうか、という懸念がある。たぶん「会社」という形態自体が時代遅れになって絶滅決定種になっているんだろうなぁ、と。

◇ ◇

ところで、どうして私の席はいつでもコピー機とかプリンタのそばなんだろうか。「やった! 今回の席替えは静かなところだ」と喜んでも、すかさず新設のプリンタが背後に置かれたりして、しかもミミッちいことに裏紙を使うからジャムってばかりで、そのたびに給紙トレイをガチャガチャ、バンバンやってくれるし……。私自身、プリンタは年に2~3回しか使わないんだけどなぁ。もちろん、プリンタのメンテなんてしません。

きっと、在宅ワークは紙の節約にもつながります。

◇ ◇

日本で Googleのようなものが生まれないのは、みんな会社のような組織で働くのが好きだから、かな? 


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