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2011年1月

一日を12時間でわけてみる。

朝、顔を洗いながら思った。

夜の12時間は大半の時間を眠ったり、もしくは眠る準備のために使う。いっぽう昼の12時間は様々なことに費やす。

食事、通勤、仕事。仕事の中身も、様々な人、様々な案件のために時間を細切れにしながら消費していく。その合間に昼ご飯とかコーヒーとかおやつをつまんだり。通勤の電車の中でも本を読んだり音楽を聴いたり吊り広告を眺めたり、電車の乗り換えには改札を出たり入ったり、駅構内を延々と歩かされたり。夕方には子どもを保育園へ迎えにゆき、途中買物をしたり……。

自分以外の人が関わる場面には、無限の組み合わせで変化が生まれる。だから、毎日違った光景、瞬間ごとに色彩が変化していく。

目に見える景色がそんなふうにめまぐるしく移り変わるのに対して、夜の12時間の構造の何と単純なことか。食べて風呂入って歯磨きして布団を敷いて電気消して寝る。それだけ。まぁ、子どもの相手とか皿洗いとか洗濯とかあるけど、大体は毎日決まりきったことで考えなくても進んでいくことが大半。

おそらく夜はそんな時間からできているんだと思う、本来的に。

だから、夜遅くまで起きてパソコンでネットにつなぐとか、ケータイやスマフォで tweetするなんてことは、自分の日常にはそぐわないのかもしれない。夜はペースを落としてゆったりモードに切り替えて、とにかく眠ることを最優先にする、消耗して削られてしまった自分を補うためにのんびりと過ごす、というのがいいのかなと思う。

めまぐるしく変化する光景なんて、夢の中でいくらでも見られるのだから。


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飲むのが二の次になるコーヒーの飲み方

他人がコーヒーを淹れてくれる、というのが贅沢なんだろうな、と思った。

朝のコーヒーを淹れるのは、結構時間がかかる作業だったりする。朝の様々な雑用のたぐいは、ひとつのことでもうっかりすると十分とか十五分とか過ぎていてびっくりするわけだが、ここで慌てて拙速に淹れたりすると出来たコーヒーが薄かったりして不満たらたらで、結局は淹れ直さなきゃならなくなったりする。だから時間がかかってもいいから、ゆっくり淹れる。

電気式のコーヒードリッパーなんてのを使えばいいのかもしれないけど、家人が「ジャマ!」と嫌がるので仕方なく自分の手で湯を注いで淹れている。

で、今朝、思った。

カフェとか珈琲店で、自分は店のテーブルに向かい椅子に座ったまま、自分の飲むコーヒーを誰か( 店の人なんだけど )が淹れてくれて、目の前まで持ってきてくれる——というのは実は大いなる贅沢として楽しまなきゃいけないのかな、楽しむべきものなんだろうな、と。

頭の中で、いまドリッパーにフィルタがセットされた、湯が沸いた、少しそそいで蒸らしてる、粉がふくふく泡を吐いて膨れてきた……なんてことを想像しながら待っている、でも自分は何もしないで椅子に座って脚を組んでぼんやりしている、なんて状況自体が、コーヒーを飲む行為以上に十分に楽しめるんじゃないか、と。

そうなってくるとコーヒーを飲むというのは二の次になってしまって、カウンターから漂ってくるコーヒーの香りとか、店の深い色合いの調度品だとか、さりげなく部屋の隅に置かれた雑貨だとか、壁にかかっているリトグラフだとか、そもそも外から穏やかな光を呼び込んでくる窓だとか、そんなこんなをじっくりと吟味すること、そしてそんな吟味をしている時間のあり方が第一義になってくるのかな、と。

じゃぁ、自宅で機械じゃなく、自分の手でコーヒーを淹れるということに、どんな意味があるんだろうか、と翻って考えたくなるわけだ。結局のところ結論は出ないんだけど、そうやって考えている時間を楽しめ、ってことなのかな。


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結露がひどいので除湿器を買った。

昨日の土曜日は一日中、自宅のマンションで過ごして加湿器をずっとつけていたので、室内の湿度が人間には適切だったけれども、暖房をしていない玄関とか納戸とかでは結露がひどくなり始めてしまった。とうとう午後からは玄関の鉄製ドアに水滴がつき始めた。家人によると、ここ数日でタンスの抽き出しが動きにくくなったらしい。

納戸に除湿器を設置しないといけない。なので、新たに除湿器を買った。

そもそも、結露してカビが生えてしまう、という環境は人間の生活には不向きなんじゃないかと思うのだ。人間が心地好い環境がカビにとっても快適、という話を聞いたことがあるが、人間にしてみれば迷惑至極。

昔の家屋なら寒いけれど風が流れるので結露なんてしないんじゃないか、したとしても今のマンションのようにひどくはなかったんじゃないか、と思うのだ。それとも、自分が子どもの頃にカビが生えて困ったという記憶がないのは、親が巧妙に隠蔽していたからだろうか。

木材や畳や砂壁や障子紙のような湿気を吸ったり吐いたりする素材で出来ていた家は、結露を抑えてくれていたんじゃないかな。

マンションは完璧に空気を遮断し、内側に抱え込んだ空気をよそよそしく抱え込むだけで何もしない。食品保存用の密閉容器みたいだ。だから空気を流したりして人間向きに整えるためには、機械の力を借りなければならなくなる。換気扇、送風機、エアコン、除湿器、加湿器……。

これまで十数年間、そんなことあまり疑問にも思っていなかったのに、何だかこの冬はひどく気になってしまう。歳を取ったからなのかな。


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父親を待っていることがある。

妻がいて、息子がいて、そして自分が座っている。たとえば皿がそろうのを待っている夕食のテーブル。たとえば外出しようと着せたコートの後ろ姿の息子が玄関に駆けていくとき。何かのタイミングを合わせるために待っているような瞬間、そんなときに、私は、父親を待っている自分に気づくのだ。

父親というのは私の父親、田舎に住んでいるあの人である。誰にでも必ず居る、もしくは居たであろう“父”というやつである。

母親が出てくることはない。もっぱら父親を待っている。当然だが、待っていても出てこない。でも、「ここにはいないんだ」と私は自分に言い聞かせないといけない。そんなときには。

そして、私が待っているその父親というのが、実は私の顔をしているということに気づいている。私は私を待っている。私の中に巣食っているのであろう父親の登場を待っている。待ち焦がれているのではなく、待ち受けている、身構えている。そんな四十代半ばの男が、ここにいる。

そんな私の顔をした父親の気配は、三歳の息子がいるときに限って感じられる。不思議なものだ。

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Googleカレンダーに“想起”機能がほしい

I hope a new function on Google Calendar, like this.

Somethingremindsystemforgooglecalen


予定やタスクを Googleカレンダーに登録するときに、あったらいいなこんな機能、ということで。

たとえば「次の帰省時には両親に東京ばな奈を買って帰ろう」とか「伊東屋にいったらインク瓶型の鉛筆削りを買わなきゃ」とか覚え書きをメモしておいても、いざその時に忘れてしまうことが良くある。「○○○のときには、□□□する」という日常生活でのクエリ的場面に対応する機能が欲しいな、と思った。

図を簡単に説明すると、

1) Googleカレンダーに何かを新しく登録すると、(例: 家族とピクニックに行く)

2) そのとき、登録内容からキーワードを判断して、(例:「ピクニック」)

3) あらかじめ書いていおいた、何か「ピクニック」に関係する覚書を探し出してきて、

4) スケジュールなりタスクなりにくっつけてくれる。

という「何かリマインダーのような仕組み」(something remind sys.)が欲しいな、と。

Greasemonkeyで作るより、Googleカレンダーの機能の一部としてあった方がスマートな気がするんだけど、どうだろうか。Googleドキュメントと連携するとかするといいのかな、どうかな。

「子どもと電車でおでかけするときの持ち物リスト」とかがセットできると大変便利なんだけど。

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20年ぶりの表参道

昨日は原宿行って、そこからパタゴニアまで。家人がコート物色するのに同行、子連れの三人旅だった。明治通りの交差点のJonathan'sで昼飯。客の若いのは予備校生か、田舎から出てきました風のアベックとか女の子のグループが多かった。

表参道から渋谷に抜ける裏道は人通りが多くて、明るくて好い雰囲気だった。あの辺に小さな会社とか店とか出したらいいかな。

パタゴニアはそんな界隈にある。明治通りという表通りのとりすました感じとはちがう裏町風情。表と裏、両方でバランスがとれてるのかな。町自体が必要としているのかもしれない。

帰路、同潤会アパート跡地を訪問。表参道なんちゃら。名前忘れた。なんか狭くて暗い商業施設だった。あの辺りは全体そうなんだが、本質めいたものから遠い。あと十年は訪問しなくてもいい気がした。

メトロにつながるエレベータは混んでいて、1回では乗れなかった。ベビーカーには不便。需要予測を完璧に誤ったな。

最初に乗ったにもかかわらず、開ボタンを押して最後になってくれた女の子は田舎から出てきました風の化粧に気合いを感じる子だった。ありがとう。

意識のハイブリッドな街だな、と久しぶりに訪れて考えていた。

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「リアルタイム」の反対語は何だろうか?【追記】

以前のエントリ“「リアルタイム」の反対語は何だろうか?”に関連して、シロクマ日報の小林啓倫さんが参考になるポスト。

▼ 「ライトタイムウェブ」の再評価:シロクマ日報:ITmedia オルタナティブ・ブログ
http://blogs.itmedia.co.jp/akihito/2011/01/post-4fe5.html

“right”には「適切な」とか「当を得た」という意味があるし、real も right も R で始まるので何だかシックリくるかんじがする。ググったらこんなブログが出てきた。

▼ The Right-Time Web « Pakman’s Blog: Disruption
http://dpakman.wordpress.com/2010/04/16/the-right-time-web/

このエントリで、町でコーヒー屋に入りたいとき、現在流れ込んできているダイナミックな情報よりは、構成済みの静的なほうが役立つね、みたいなことが書いてあってわかりやすい。

情報学では必ず出てくる( んだよね? 20年前はそうだった )

 事実~情報~知識

の図式で考えると、事実≒リアルタイム、知識≒ライトタイムという感じなんだろうか。人がどのような意味をそこに見出すのかによって、この認識は変わってくる。

ライトタイムだからもう変化しないのかというとそうでもなくて、リアルタイム情報を取り込みながら内容や構成を変化させていく。同時に、その構成自体に意味を見い出せる。でもって、その構成自体が変化し得るというところに、ライトタイム的機能のカナメがあるんだろうなぁ(ちょっと混乱してる)……と小林さんのエントリを、昼ご飯を食べながら読んで考えていた。

ああそうだ。小林さんご紹介の「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」を買いました。分厚いので自炊しようかと思った。しかし、そんなによくない装丁だけど天地小口に着色してあったりカバーが両面印刷だったりで凝ったところもあるので、バラせないままツンドク化しつつあります。こういうのはページ内情報だけじゃなくて、書物としての形態自体が意味を持ってきているという点でリアルとかライトとかを考えるところにつながりそうですね。

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