« 2009年12月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年1月

受験生諸君。人生に無駄はないのだ

無駄、なんてひとつもない。頼る気持ちがあるから「無駄」なんて言葉を使いたくなるのだ。

落ちこぼれであっても、滑り止めであっても、どんなところであっても、自分の居場所は見付けられるし、自分の居場所は自分自身で作り出せるものだ。

頼る気持ちを抑え、最善を尽すとき、全ては正しくなる。

最善を尽すとは、自分のありのままをさらけ出すことだ。そのとき、素っ裸で路上に立ち、それでいて、落ち着いている自分を見つけられるような気分を得るだろう。

だから、深呼吸をしたら自分の名前を答案用紙に書き、微笑もう。君が勝利だと思えば、貧乏神ですら降参する。

| | トラックバック (0)

電球型蛍光灯、エルメス、新聞紙

きのう届いた JMM566Ex は、“「電球型蛍光灯への移行」平らな国デンマーク” ということで高田ケラー有子氏の記事だった。欧州では白熱電球の製造をすべて中止する方向で動いているそうで、そのかわりにLEDや蛍光灯に移行してゆくのだそうだ。

そんなこともあるので、きっと照明器具の規格が変わるだろうということで、我が家では新規の照明器具の購入は見合わせている( 妻に云わせれば「日本製はデザイン的に論外」なんだそうだ )。

で、高田氏はこの件に絡めて二つのことを書いている。ひとつは、廃棄物となってしまったときの電球型蛍光灯( 電球形蛍光灯 )の処理の方法について適切なアナウンスが社会的になされていないんじゃないかということと、もうひとつは、先述の“デザイン”的に現在の照明器具と電球型蛍光灯とは相性が悪いよね、ということ。

そういえば電球型蛍光灯って、どうやって捨てればいいんだ? 以前、うっかり割ってしまったときにヘンな匂いがして気分が悪くなったことがあるけど、アレは結構ヤバイ状況だったのかもしれない。不燃物で捨てちゃったよ。

まぁ、それはとりあえず置いておいて( いいのか、おい?)、デザインに関係して「白熱電球って、ノスタルジーだよね」と思ったのだった。

白熱電球は光の色なんかが優しくて、子どもが生まれる前には、野暮で無粋な蛍光灯なんて使ったことはなかった( あくまでも私見です )。台所の流しの蛍光灯にもクリップ式の電球式ライトをつけて使っている( こちらはクリプトン球のレフランプだけど )。さすがに、子育て中には十分な明るさが必要なので、天井取り付けの蛍光灯を使うようになったけれど、子育てに一段落したら、たぶん蛍光灯を使わなくなるだろう。

で、40代も半ばの私が「白熱電球」で思い浮かべるのは、天井からぶら下がった黒コードに白いすりガラスの傘がついた裸電球で、ソケットのスイッチを“キュッ”とひねるやつ。日が家並の向こうに沈み、外が薄青く黄昏れ時を迎えて、ちょっと煙ってるのは近所で落ち葉焚きかなんかのせいで、板張りの廊下の先にある木戸の手前なんかは真っ暗になっていて、そこで“キュッ”と居間の電球を点すと畳の上に柔らかい光が落ちて、磨きこまれたちゃぶ台の表面がいろんな濃淡のこげ茶色の艶を見せている――なんて光景なんだ。台所からは木のまな板で何かを切っている包丁のトントントントンなんて音がしてね( ステロタイプだけど、仕方ないじゃん。これが子どもの頃の記憶なんだから )。

まぁ当時は塩ビを燃やすやつなんていないから落ち葉焚きでダイオキシンの心配はいらなかったろうし、電球の数が少なく、無闇にあちこち照らし出すなんてこともないから家庭用白熱電球の消費電力なんてたかがしれていたことだろう。

蛍光灯にそんな思い出がないでもないけど、白熱電球にくらべてどこか無機質というか素っ気ない記憶しかないような気がする。繰り返し蛾がぶつかっていた夜中の自販機の光だとか、空調のダクトが丸見えでのっぺりと照らし出された会社の中だとか。

白熱電球には郷愁的というか、ひとりでひそかに甘えることができそうな過去の記憶とつながっているような気がするんだけど、私だけかな?そんな一種ノスタルジーのような感覚というか感触というか、そんなものが欲しいからこそ、“電球型”蛍光灯となるのかもしれない。つまり、「ノスタルジー」という情緒的な価値が商品化されているんじゃないか、ということ。

で、そんなことを敷衍してみると、「ノスタルジー消費」というラグジュアリー消費があるのかな、と。

私が働いている新聞業界はいよいよきな臭くなってきているんだけど、これはもしかしたら、ムリして新聞紙を「必需品」にしようとしているからなんじゃないか、と。ニュースの伝達媒体としての機能をさっさとネットに譲り渡して、「新聞紙というノスタルジー」をメインの価値にして再構築したらいいじゃないかな、と。「新聞(紙)」というモノと、それにまつわる文化的な匂いをフルに活かしてやれば、まだまだ青い海があるんじゃないかな。たとえば、「新聞とカフェ」なんてお似合いの組み合わせだから、21世紀型カフェ文化なんてやつの核になれるかもしれない( ムリ?)。マホガニーをたっぷり使った法律事務所にも似合いそうだ。

必需品がありふれた日用品になって、同時に単価がどんどん下がってしまって、どの商品でも似たようなどんぐりの背比べ状態になったとき、もう安売り競争しか残されていなくてあとは体力勝負というわけで、その真っ赤な海から逃げ出すには別の価値軸を見つけ出す必要があるわけだけど、乗馬や馬車なんてのが廃れて馬具とその製造技術がラグジュアリー消費に供するべく向かったように( エルメスってそうじゃね?)、新聞“紙”もそっち方面で研究してみればいいのに。

なにも手帳なんてコードバンである必要はないけど、やっぱりあの艶とか手触り、質感というのは捨てがたい。一種の贅沢消費だよね。

さらに敷衍してみると、観光用の蒸気機関車だとか、寝台特急電車のサンライズエクスプレスだとか、JR九州を走っている水戸岡印の車両なんてのはノスタルジーだとかラグジュアリーだとかに価値転換した例になるだろうし、そもそも観光旅行なんてのは情緒を愉しむ消費財なんだろうし、もしかしたら東京における自動車なんてとっくの昔にそうなんだろうな、と思ったりもするわけだ( おっと、唐突に)。

電球型蛍光灯のような新聞、って、どんなだろうね。

| | トラックバック (0)

“本”質の見極め方

対象を前にして「これは本質か?」と自ら問う。

(A) 「そうだ」と即答できるなら、本質の可能性あり。

(B)「ん~……」と悩むなら、やはり本質の可能性あり。

(C)「ちがう」と即断できるなら、本質ではなく表層である。

なので、“(C)「ちがう」と即断できるもの”は最初にバッサリと切り捨てて構わない。だいたいにおいて後悔しないし、必要になればいつでも手に入るから安心しておいてよろしい。目の前にあるとすぐに邪魔になってしまうものだ。

“(B)悩むもの”は、対象そのものについてではなく、対象が本質かどうか悩んでしまっている今の自分の心持ちを取り出して吟味してみる。すると、対象そのものよりも、自分の心持ちに本質へのヒントが見つかることが多い。だから、悩みは大切にしなければならない。

“(A)「そうだ」と即答できる”ものは、単なる思い込みの可能性が高い。はたして、これまでに(B)の過程を経た結果として「そうだ」と即答できるのであれば、おそらく本質なのであろう。そうではなく、脊髄反射的に「そうだ」と云っているならば、「そうだ」と思い込んでいる可能性が半分ある。

「本当に“そう”なのか」とさらに自問する必要がある。「そうだ」と云っている瞬間に嫌な気分になっていたり、眉間に縦ジワができていたり、口元が苦笑しているなら、たぶんそれは本質ではない。ただの思い込みだ。

以上の方法は、“本”の処分に役立つ。どの“本”を捨てるか、どの“本”を本棚に残すかを決めるときの判断基準になる。

| | トラックバック (0)

やっぱりtwitterは半分しか使わない、その理由

昨年2009年12月17日から、twitterの followというやつをやってみた2007年5月22日に twitterを使い始めているから、ユーザになって2年半にしてようやくの followスタート。いわゆるアルファブロガーと呼ばれる人を中心に、あとは私を followしてくださった方や、followの followで見つけた方など 30アカウントほどなんだが、結局のところ三週間ももたなかった。

やっぱり、私には TL( time line )の流れが速すぎる。

無視すればいいんだろうけど、followしている以上、どうしても読んでしまう。そしてついつい twitterにアクセスする頻度が高くなってしまう。すると、自分的にはどうでもいいようなことをツイートしてしまう。でも本質じゃないから自分としては不満が残る。それに、本格的にツイートしている人たちはフルタイムでブログを書いているような感じのひととか、ネットやテレビを常にチェックしていて Watchdog journalist のようなかんじなんだけれども、どうにもそのスピード感には疲れてしまう。

私自身のキャパが小さいというか、きっと古い人間だからなんだろう。

いっぽうのコチラは毎日会社に通勤して、会社の仕事を優先して働いて、帰宅すれば夕飯を子どもに食べさせたり、風呂に入れたり、洗濯、皿洗いに掃除といったぐあいに、テレビや新聞に費やすヒマなく毎日をてんてこ舞いしながら回すので精一杯。民主党政府がどんな愚かなことをしようとしているのかとか、ゴルフだ野球だサッカーだとか、iPhoneが Androidがもたらす未来像だとか、電子書籍の黒船がやってくるだとか、そんなこんなを追いかけるなんてことは、とてもできない。(<だったらブログなんて書くなよ )

やっぱり自分は社畜な小市民なんだな、と思う。

偉い人は「市民の義務を果たしていない」とか「思考停止」とか「働き方が間違っている」とかイロイロ云うだろうけれども、私にとってはこれが現在の事実で、この状態が良いなんて思ってはいないけれども、これが私の人生なんだ。

おっと、脱線した。

ということで、時間的にも精神的にもゆとりがないので、twitterの followはすべて解除。同時に試していたこのブログのコメントとトラックバックもすべて閉じた。何か文句がいいたいならご自分でブログに書くなり、私のメールアドレス( プロフィールに表示してある )に文句を送るなりしておくんなさい。followを解除しちゃった人たち、ごめんね。

こんご twitterには酔っ払って戯言を書きたくなったりしたら書いていくだけにしようと思う。(<酒なんて飲まないで働けよ )

※おなじタイミングで SMASH MEDIAの河野武氏が twitter自体をやめてしまったのが興味深い。ひとにはそれぞれに一番心地好いビートというのものがあるんだね。

【参考】私がtwitterを半分だけ使う理由

| | トラックバック (0)

弱者を切り捨てない、という選択肢は斜め上にあるんだろうか?

不景気を解消するためにデフレを止めるべきだとか、労働人口の流動性を高めて労働生産性を高めるべきだとか、実名でブログを書けないのは社畜だからだとか、やればできるとか、嫌なことは断れとか、年寄りが合理的な若者をつぶすとか、どれもこれもなるほどゴモットモ、と思ったりするわけだが、そういうことをネットで発言している人たちはいずれも仕事にも所得にも名声にも恵まれた人たちで、ブログを書けばアフィリエイトだけで基本生活費をまかなえるんじゃないか、というような“富める人々”のように思われるのだ。

で、その人たちが云っていることは正論で、正義で、合理的で、先進的なわけで、私のような小市民からすると理想の世界のように思われるわけだ。素晴らしい。なるほど。そこに目指すところがあるようですね。私も頑張りますっ、って。

でも、正論や正義や合理的とか先進的というやつについてゆけない人たちがいることも確かなわけだ。さて、その人たちをどうするか。バッサリと切り捨てるか、それとも最底辺ユーザとしてキャッシュ・カウの根っこを支える原資と見るか。

いいんだよ、頑張らなくても。これまで通り、これからも同じようにやっていこうね、悪いのは別の人たちなんだから、と当座のカネと寝床を渡してお茶を濁すのも一つの方法なんだろうし、頑張らなかったオマイらが悪いんだから文句云うな、オレを見ろ、成功しているだろうが、オレができるんだからオマイらだってできるはずだ、さぁガンバレ、とシリを叩くような励ますようなことを云って信徒化するもよし。

そんな思いやりがあるような、ないような、合理的な理屈を振り回すやら、いろいろあるわけだが、その斜め上の方に何かあるんじゃないか、という気がしている。

国際経済がどうのとか、日本社会がどうのとか、そんな広大なレベルで論じることなんて、私のような小市民にはできないから、卑近な例で考えてみた。レベルを落としているわけだから、前提条件から間違っている可能性があるわけだけど、まぁ、いいや。小市民だもん。

私は「ネット部門」で働いていて、つまり仕事がネットをフィールドにしているから、仕事をするにはPCが必須だし、ケータイをはじめとしたガジェットの使い方なんかも一通り慣れているわけだけど、オシャレなネットベンチャーじゃなくて「旧態依然とした斜陽産業のネット部門」なもんだから、ネット部門の周縁部の人たちとも付き合わねばならない。

メール送ったよ~と社内電話する人とか、自称「エクセラー」のくせに if文すら使ったことがないとか、ブログは全部印刷して電車の中で読んでいるとか、iPhone使ってるゼ凄いだろうと云いながら「2010」と表紙に箔押しされた手帳に会議の予定を書き込んでいるとか、ウェブページ作って10年なのに未だにJavaScriptを書けないしHTMLソースを手書きできないとか、メールなんて読まないからファクスで送ってちょ~とか、エンジニアなんて居ないのに CGI仕事を取ってくる営業とか、まぁ、そういう人たちと日々付き合っているわけだ。

こういう人たちを、ITスキルが「低い」とか「無い」とか云って切り捨てるのは簡単だ。

ところで、彼らがなぜITスキルを高めようとしないのか。それは“乗り換えコスト”が高いからだ。スキルを高めて得られるものよりも、現状を維持する方が痛みが少なく、お得で、快適だからだ。なぜそう思ってしまうのかというと、ITスキルを高めた先に明るい未来が見られないからだ。

別にいいよ、いまのままで、何とかやってるし、第一面倒じゃん、別に困ってないし、みんなだって同じだよ。

ということで会社の体力がなかなかつかないばかりか、業界全体が沈没しかけているんだと思う。それとも大丈夫なのかな。私の杞憂? 多少なりともスキルの高い者が、明るい未来を分かりやすく描いてみせる努力をすべきなのかもしれない。

Excelで関数とかマクロ使うと、ほら、こんなにラクできるんですよ、さっさと仕事終えて飲みに行けるし、取引先の山田部長だって仕事の早さにびっくりしますよ。

自己啓発系の人々は、プレゼンで上司を説得しましょうとか、取引先を動かすにはこんなプレゼンが大事ですとか、いろいろ書いたりセミナー開いてカネ取ったりしているわけだけど、弱い人、やる気のない人、もうこのまんまでいいや、とりあえずメシ食って風呂入って寝ちゃお寝ちゃお~、という人たちに将来像を描いて見せる、見せて動く気にする、そんな方法ってやつを誰も教えてはくれない。

カネにならないからだ。草刈場の草は放っておいて伸ばすに限る。

自分の住んでいる世界の底上げを試してみるか、それとも彼らを切り捨てるかを選ぶのは我々自身なわけだが、私はとりあえず切り捨てるほうを選ぶ。

自分が生きていくだけで精一杯だからだ。自分と家族の酸素マスクを確保するので手一杯なのだ。そもそもこんな便に乗ってしまった自分が一番悪いんだけどね。だから、メール送ったからと電話する人にも笑って応対するし、ググればわかることを訊ねてくる人にも丁寧に結果だけ教えてあげる。

非合理な人も合理的な人も、どちらもルールは唱えてくれるが未来を描いてはくれないし、富める人たちは草を伸ばしたがるし、私のような貧乏人は毎日を回すだけで他のゆとりなんてもんがない( <だったらブログなんて書くなよ )。

――なんてことを、縦軸に「金持ち↑↓貧乏人」、横軸に「非合理(≒思いやり)←→合理的(≒非情)」なんて引いたマトリクスを描いて、自分が普段好んで読んでいるブロガーの人たちをプロットしながら考えていた。そして、ここのどこかに青い海があるかもしれない、なんて考えている私は「貧乏人×非情」ということで最悪の人種かもしれない。地獄に落ちるタイプだな。ええ、ひがんでます、ひがんでますとも。

| | トラックバック (0)

年賀状のコンタクト情報は名刺サイズに収める

気が早いけど来年・卯年(2011年)の年賀状についてメモ。

年賀はがきに記載する差出人の住所・氏名・メールアドレスのようなコンタクト情報は、ハガキの表面( 宛名を書くほう )と裏面( 文章を書くほう )の位置合わせをして、名刺サイズに収まるようにデザインするとよさそうだ。ハガキを光に透かして見たときに、表面、裏面ともに重要な情報が名刺サイズの領域に集まるようにするわけだ。

名刺サイズの切り取り線を印刷しておけば親切だろう。

しばらく会っていない元News2uの知り合いが、独立の挨拶も兼ねて年賀状を寄越してくれたのだが、それが絶妙の位置取りでデザインされていて、表面の差出人スペースと、裏面の年賀状本文の会社名やメアド、URL、そして手書きのメッセージが、ちょうど名刺サイズに収まるのだった。

おまけに裏面に描かれたイラストの中心部分もしっかり収まっている。びっくり。

年賀状の「お年玉」なんてどうでもいいので( どうせ切手シートだろ?)、さっさと該当部分をハサミで切り取って、名刺フォルダーに入れておいた。郵便局まで交換に行く時間コストよりも、こうやってコネクションを保つほうがずっと合理的だ。来年の年賀状はこの手でいこうと思う。もしかしたら、巷ではフツーのことなのかもしれないけど。

計画的にデザインしたのだとすれば、なかなかだなぁ~、と感心した。

年賀状は親戚関係だけを残してリストラしているのだが、こういう手でやってこられると、名刺交換と同じくらいの効果があるかもしれない、と思ったりする。

| | トラックバック (0)

« 2009年12月 | トップページ | 2010年3月 »